2022.03.17
住職備忘録
50年前の辛い思いで in 高野山奥の院
50年前の私は18歳。このお話は50年前の高野山2月、極寒のある夜のお話です。寶壽院と言う修行僧にして同じ釜の飯を食べ早朝から夜に至るまで問答無用の生活を送る道場でもありました。厳しく辛い毎日の生活の中で18歳の私。仏縁あって人が寄り合い、色々な過去を持つ人との生活は殺風景で時には殺伐としたお寺の中でした。
今から思うと私はその中で、無邪気でマスコット的存在であった事が思い当たります。最年少の私は良くして頂き、50年を経た今でも良い思い出ばかりです。春は鶯が深山の谷々に明るさを運び、紫陽花の鮮やかさは修行に明け暮れる心になごみを与え、仏法僧の声の音、清流の涼やかさ、アブラゼミのたぎる活力、水が滴るお寺の中には清風と共に時が静かに流れて紅葉を迎える。極寒零下の日々と共に新たな年を迎えた高野山の二月。
漆黒の空からは砂糖を塗したアンパンの様な雪が勢いよく降り積もり、山からの水は凍てつく清流に流れ込み、万が一にも川に落ちたら命とりのような環境の中で「オイ湯川君(私の名前)、今晩は奥の院の玉川で水をかぶって身を清めよう」と誘われた。「数名で行くからさ、君も夏に行ったじゃないか! 男だもんな、行くよな」っと誘ってくれるが、外は大雪。
実は数日前まえから「水行に行くらしい」と言う噂が立っていた。このくそ寒い毎日、多くの僧侶は霜焼けで指はパンパンに張れ、分厚いズボン下を数枚も重ね着をして耐えているのに、凍った川の中?
「私は止め、で?」と一言いうと「何だみそこなったな」「湯川君 男だろ」「なぁ 行こうよ」・・・仕方ないな。
ツルンツルンに凍った月の光の奥の院参道、ただただ黙々と誰も言葉を発しない。やがて片道2kmの奥の院玉川水行場へ到着した。誰も声を発しない、一言も、今から始まる行を想定して。 スパイクを打った下駄を凍った雪の上に履き揃え、足袋を外して下駄の上。水行石畳の上の雪の凍てついた感触。 笑顔も軽口も誰も黙して語らない。氷点下-10度程であったか。全員ふんどし一丁になり清流轟々の中にエイと気合を入れて足を入れる。川の中では肩まで水に浸かり手を合わせ、先達の音声と共に声帯が復旧不能な程までに大声で般若心経を読む、手をシッカリと合わせて。
清冽な流れは体の隅々にまで浸み渡り、肌と肌との触れ合うホンの一縷の暖かいところまで容赦なく入り込み、少しでも動こうもんなら気絶するほどの寒さが刺してくる。ともかく何も考えられず、できる事は神仏を信じて声を限りにお経を読む事しかなかった。どれ程経ったか、誰かが「パン」と手をたたいた。お経の終わりでありトドが陸に上がれる瞬間である。今は覚えていないが川から上がり寒かったことを強烈に覚えております。ともかく体を真っ先に拭く事である。余りにも凍てついていて、体を拭いている感覚が無い。 どこを拭いたか自分でもわからない。ともかく濡れた下着を外し、分厚い股引を履いて足袋を取り寄せる。足袋をはいても指の感覚が無い。コハゼを止める事が出来ない。足袋は履いても履ききれない。ともかく衣を着て袈裟をつけて身支度するのが精一杯でした。「帰るぞ」っと言われ下駄を履いて歩むも、足の肉に骨が巻いて板の上にゴツク載っている感覚でしかなかった事を、50年も前の事を昨日のように思い出す。50年も前の事です。その帰路に、何時の間にか心の中で口ずさみ、ある光景が頭の中に浮かび上がります。
私が青年時代の昔、ダークダックスと言う男性コーラスグループが「銀色の道」と言う歌が流行っていた。「遠い遠い はるかな道は 冬の嵐が 吹いてるが 谷間の春は 花が咲いてる ひとりひとり 今日もひとり 銀色の はるかな道」。「白い白い」お寺へ帰る道♪。寒い辛い遥かな道、ひとり、ひとり、銀色のはるかな道♬、と18歳の私は呟きながらお寺に帰りました。
面白いものでお寺に到着する頃になると、体は暖かくなり拭き損ねた個所は冷たく濡れ、下駄の板の上にあった足の感覚は元に戻りこはぜが全部外れていた事に気が付いて帰ってきました。「寒くなかったか?男だな、頑張ったな」と言われても私は「有難うございました」と返事をした記憶でした。不運は翌日、思わぬ事が突如起きました。数珠が無い!数珠が無いでした。「買えばいいだろう」では済まされないのです。お寺の中に数珠は売っていないのです。数日間数珠の紛失場所を幾度となく思い返して「まさかぁ」を思い出しました。奥の院水行所で自身の衣や数珠を何と、奥の院不動堂の扉金具に掛け、水行後の寒さと体を拭き上げ衣帯をつける事に夢中になって最後の数珠を、それも暗闇の中で引掛け忘れてきたことを思い出しました。外出日に往復4㎞を一気に往復、不動堂へまっしぐらに行き「すいません、ここに数珠が引っ掛けてありませんでしたか」っと尋ねると暇そうな顔をした僧侶が「おまえか!」ッと一喝されて「二度と忘れるな」と怒られました。
50年後の先月二月末に、高野山奥の院を参詣しました。御廟の前で黙々と読経を行い、自問自答や種々の悩み事も併せて何時もの廟参をしていました。数珠を擦り終え、経本と輪袈裟、数珠をひとまとめにして、手さげ袋を持って坂道の先の車へと下る。いつも高野山へは一気に登嶺する私は、名古屋からトイレを我慢してました。そうだ!奥の院トイレに入ってさっぱりしよう。 僧侶はトイレに入る場合、数珠や経本、袈裟はトイレへ持ち込まないのが作法。トイレ入り扉の袈裟掛け箱に引っ掛けてトイレを済ませました。サッパリした私は気分よく、何も思わず次の奥の院墓参に向けて車を走らせて数珠袋の事は全く忘れていました。
その瞬間から数珠一式が手を離れ極寒の奥の院の袈裟掛けにぶら下げられている。私の頭の中にはかけらも残っていませんでした。墓参すべき場所は深いに覆われ、急な石階段は凍って危険で、冬の時期は車窓から一礼の後に失礼をしました。数珠袋を再び50年ぶりに再び置き忘れてきたのです。怒鳴られ散々に罵倒された不動堂、凍てつく川の水行場の横はトイレ。50年前と寸分違わぬ同じ季節の同じ場所。
寺に帰って翌朝より数珠が無い事に気が付き散々探し求めましたが、不明のままでした。この点50年前は18歳だったので昨夜の事を思い出す事が出来ましたが、50年も経つとね・・・歳ですね。
無い 無い 言ってあちこちを散々探し回りました。どこにもない筈ですがどこかに在るぞ、と言いながら紋々の二月を終え三月に入り高野山参りに出かけさせていただきました。 車の中でも「数珠が無いな~」と悶々として天理インターから京治バイパスへ向かう時、ピカリと光が差し「まさか数珠をあそこに?」っとトイレの事を思い出しました。
高野山奥の院の名古屋出身の知人に電話したら調べて頂きました。数分後に「まさにそのものですね」とご返事を頂き車を急がせ、50年前に怒られたそのお堂のその前の説教された同じ場所で、笑顔の僧侶からお土産まで重ねて頂いてご利益を貰いました。あれから50年、年を取りました。この先が怖いです。
平成元年4月24日住職 「まさにそのものです」言われたお経の本のカバー。
少なくとも平成元年から高野山月参りをしていたんですね。