2020.10.02

住職備忘録

『天の原振りさけ見れば春日なる ・・・』

 再び和歌山港に降りた私は、古都奈良を目指した。昭和60年頃、高徳院山門建立を私は室町様式に凝っていた。京都東寺、三十三間堂及び法隆寺等の南大門は室町時代の建立と建設業者から説明を受けて見学をしたことがあった。なるほど現在の高徳院山門は八脚門でよく似ている。それ以来の古都奈良の訪れであった。

 和歌山からの古都奈良への道のりは二時間ほどで。車を置いて興福寺境内界隈をさっそく散策しました。心痛むのは明治維新から数年間、無慈悲で無謀な廃仏毀釈により強奪の標的にされた寺院の旧境内地や仏像であった。野蛮政府の悪態を私は読んだことがあった。県庁もホテルも道路も目立つ土地は全て問答無用の強奪物件である。興福寺のたくさんの仏像や有名な阿修羅像の腕も、講堂で巡査のたき火の暖に燃やされ、事もあろうか、興福寺五重塔の頂上に立つ相隣の「銅」欲しさに薪を積んで燃やされるまでに至っていた。近隣の住民は類焼を恐れて反対を強訴、何とか現在の五重塔は無傷で残っている。この廃仏毀釈は全国に吹き荒れた近代国家へ急ぐあまりの野蛮行為と言わざるを得ないと思う。

 大昔、欽明帝の頃より仏教が伝来、聖徳太子は「和を以て貴しと為す」で17条憲法を制定、律令制や鎮護国家を目指していた。仏様のEssence、戒律を守り仏の加護を得て安寧の毎日を1300年間、祈り祀られ続け堂塔伽藍は興廃を繰り返したが、幕末は攘夷一本で同一方向に向いていた日本の夜明け。 明治維新完了の途端、攘夷とは真逆の開国、王政復古、版籍奉還と旧来社会の改革。近代化をために抹殺の対象が大小問わず寺院は廃仏毀釈の大嵐に見舞われた一時期。全国でも有名な神社の幾つかも元はお寺であった事実はあまり語られない。神楽殿に阿弥陀様がお祀りされたり、膨大な仏像は燃やされ売り飛ばされ、五寸釘は仏の眉間に打ち込まれ、佐幕討幕に関わらず藩主が御家を守るための狂騒し、国が首謀者となった寺院への破壊と文化操作。

 お陰もあったそうで、回収した銅器等で鉄橋や戦争を行う銅を多く得て列強に対抗準備を始め、御堂が学校に替わたと言う。神様の優位性を説いた古書原本を私は拝見させて頂いた事が有る。本来、神道は無言であり自然崇拝であり無口であるのが特色と司馬遼太郎は講演で語った居られる。藩主の御家の家禄安泰の為には歴史に墨を入れ、無慈悲で悲惨窮まる破壊活動、そして無知の炎を灯して同調した大勢の人々。

 兎も角、廃仏毀釈が活発だった県は、藩主が御家を守る踏み絵として寺を破壊しつくした。熾烈を極め、討幕派の大藩ですら未成果は「明日は我が身」。 家督存続のためには「畏れを知らぬ暴虐無人と破壊の限り」と並行して「御家の存続」を新政府に願ったの結果が「廃仏毀釈」と私は思っています。仏さまと伽藍は憎まれる覚えはないのです。

 話を元に戻すと遣隋使、遣唐使は秀才で、国書を持し、危険航海を顧みず、また20年程の留学期間、長安で命を落としたりであった。高徳院の宗祖弘法大師も遣唐使の詳細は「空海の風景(司馬遼太郎著)」によって鮮やかに描かれている。逆に唐の僧侶「鑑真」は日本の僧侶から戒律を授けて頂く「戒師」として招聘を願わられた。1000枚の袈裟が日本字僧侶から中国人僧侶に贈られ袈裟の縁には『山川異域、風月同天(山川、域を異にすれども、風月、天を同じゅうす)』と刺繍された袈裟を眺め、正式な戒律の師匠として日本へ渡海を決意したのだそうです。後日、興されたお寺が唐招提寺。鑑真和上はお釈迦様のご遺骨を持し、そのご遺骨は唐招提寺瑜祇塔内に祀られている。大陸に渡り秀才の名を欲しい侭にしたした日本人も多かったそうです。昨年、長安、洛陽を私は訪ね阿倍仲麻呂のお墓も訪ねました。

『天の原 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも』

鹿は1200頭奈良市内にいるそうです。近所の古老の方からの米糠を貰っていました。

 

私も夕食を頂きます

 

鹿は観光客(〇国人)が来ないためにやせ細っています。が、

本来、草を食べるので以前に比べて大変健康になったと教えていただきました。

興福寺の宝物館を眺めて南円堂へ。

角を曲がったらこの行列に幸運にも出会いました。

60年ぶりの復活 渡御(とぎょ)「神輿が進む」ことを意味すると言う

大幸運にもこの行事をお参りする事が出来ました。

興福寺宝物館でゆっくりとお参りをしてゆっくりリラックスして歩むと

 

この渡御(お神輿が進む事)をお参りできました。

氷室神社 氷を保存して平城宮に献上した事に由来するそうです

神輿を目の当たりにするのは初めてです。

本当に幸運ですが60年ぶりの復活だそうです。

鑑真和上 開創 唐招提寺 律宗

戒壇院 戒師に戒律を授けていただく堂 

戒壇院は僧侶を輩出可能となり大寺となる

平安時代はこの戒壇院創設が大きな問題となり

空海は奈良東大寺別当に任ぜられ奈良と平安の調整役として後年京都、

奈良、高野山と一カ月に数度も往復する事となったと

「空海の風景」では語られてる記憶です

         この後、充実した休日を良い思い出として自坊へ戻って気持ちの安息を得た。

旅に出たロバが駿馬で戻る筈はありませんが、気分の充実は本当に大切です。

 

 

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