ここ二年間、所用で私は読経に赴かなかったんですが今年は導師として昭和47年以降の慰霊祭に出席してきました。28歳で作成した弔辞、自分ながら今でも良く作る事が出来たなと思うくらいに名文?と思っています。以前にも記しました事を再度、ここに書き記そうと思いました。医科大学への献体への真の思い、自らを解剖体に申し出る崇高さを再び記します。
藤田保健衛生大学医学部での解剖慰霊祭追悼法要を本日執行してきました。創立者藤田啓介先生が提唱して第一回慰霊祭は高徳院で行われました。今では信じられぬ事ですが医学部学生諸君及び教職員はお寺に数日前から来て拭き掃除、法要の準備、トイレ掃除、ガラス磨きと、ご遺体を献体して下さったご遺族の方々への、ヒシヒシとした感謝の気持ちが伝わってきた事を覚えております。この頃では初夏の頃の慰霊祭となりましたが、創立者藤田啓介先生がお見えの頃は11月頃、寒くなった頃に本堂を会場として行われました。掃き清められた境内には両側に学生教職員一同がお出迎えをして深々と頭を下げておられました。座敷に上がったご遺族は未来の女医さんとなられる方々より様々な心を尽くしたおもてなしを受けて一時を過ごし、本堂で厳粛な追悼の辞、読経と法要が行われました。ご遺族のお見えでなかったご遺骨は納骨堂へ丁重に埋葬され、当寺では解剖体一番目の方から当寺の名簿に記載され、戒名も付けてそれは丁重にご供養が為されていました。憚り乍ら、藤田学園も草創の頃であり大変な困難な時期であったにもかかわらず慰霊の気持ち、ご遺体への感謝の気持ちは粗末になさらなかった事を20歳の頃の私の衝撃的な想いとして今でも鮮明に記憶しております。
藤田啓介先生がご存命の頃は、解剖実習が2期に渡り行われていました。2年生と6年生。通常の医学課程では1回が必修単位でしたが創立者は、ご遺体の大変不足している中、最終学年生に再度の実習を命じておられました。解剖学は大切な学科であり現実的、具体的、系統的な医学の基とされ、先生はその大切さを、困難な中に学生に科されました。一年に2回の火葬慰霊祭と、開学以来の総合慰霊祭の年3回の慰霊祭が行われていました。会場は高徳院から医学部講堂に移り、慰霊祭が行われるようになり、祭壇の上にはお一人が読み上げられるとお一人が焼香をする。お一人が席に戻るとまたお一人が読み上げられる徹底した供養祭であり、毎年法要は4時間ほどの読経となりました。恐らく今年で私は41回目の慰霊祭を主祭した事となりました。
今では「死んだら献体が良い。何もしなくても納骨堂に入れる」と真顔で言われる方がありますが、自分の尊厳をどの様に思うとこの様な言葉が出るのでしょうか??
藤田保健衛生大学病院の設立のあの困難、多くの人の犠牲的献身による建学、献体の崇高な精神、医学発展と献眼や臓器移植等々、故藤田啓介先生を始め献体の会の「不老会」等の先人達の思いに振り返ると安易に献体という言葉は、その人々には不適切であるように思われます。葬儀が終わると、医学部の弔辞を頂いて医学部へ旅立った人々、そして医学部から遺骨となって高徳院に戻り火葬法要読経後、ご遺族に遺骨と感謝状、文部大臣表彰状を胸に、遺族の元へ帰られた遺骨は昭和47年以降総計3000霊位弱になりました。
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