2018.08.22

住職備忘録

高貴寺参詣と仁王像の仕上がり

高徳院と大変ご縁の深い河内の国『高貴寺』さまを突然にお尋ねしました。

 高貴寺はかつては「香気寺」と言う名前のお寺でした。

近隣に叡福寺と言うお寺があり聖徳太子がお祀りされています。平安中期、弘法大師は唐の国より帰朝後、しばらく九州に留まり、京都の中央での覇権争いであった藤原薬子の乱が落ち着くまで『香気寺』に留まり留学先、唐からの招来(持ち帰った)させた品々の一覧表(御招来目録)を書かれておられたと言う。この下りは司馬遼太郎氏「空海の風景」での記述で有ります。弘法大師空海は、香気寺から隣町の叡福寺聖徳太子廟に100日間参篭された折に弘法大師が本来の仏の位置、本地仏(ごほんじぶつ)が「高貴徳王菩薩」であることを太子廟堂内で修法中に感ぜられ、仮寓先香気寺に戻り尊容を彫り「香気寺」から「高貴寺」へと寺名を改名されたと言う。これは今日お尋ねした高貴寺住職もご承知されており、司馬遼太郎氏作品にも記載されています。司馬氏が言う香気寺は芳しい草木の香が山内に満つ真言律然たる寺院と表されていた記憶で有ります。

 実は高貴寺にお祀りされていた高貴徳王菩薩は後に弘法大師が高野山を開創される折に共に高野山に迎えられ高徳院が創建されたと言う言い伝えが有り、また昨日高貴寺住職から直接伺ったお話です。高徳院の記録では大正10年ごろ岡山県の福田海の代表が桶狭間の慰霊訪問時、初めて高貴徳王菩薩の所在を確かめと言う。長らく高貴寺が探している仏様の事を告げ、模刻の機会を高貴寺に伝え、福田会による篤志で現在高貴寺にて摸刻像がお祀りされている。福田会の篤志と高貴徳王菩薩が高貴寺に還ってくることを太子村で大歓迎法会となり盛大な法要の写真が残っていると高貴寺住職は私に伝えて下さった。不思議なご縁にはるか大昔の事が蘇るような思いでジッとご住職のお話を聞き続けました。そのお祀りされているお堂をご案内してくださると言う。全く残念至極のお話ですが数年まえからの大雨で参詣道は巨木もろとも谷に転げ落ち大変難渋してお堂に到着を得ました。 

が・・私が何時もお参りする高徳院本尊様の摸刻の様子は残念ながら異なっていました。異なっていたことを告げると、大正年間に高貴寺にて摸刻をする折にもう一ケ寺、高貴徳王菩薩を彫った寺院があり資料を探すとご住職は少し紅潮して私に告げてくださいました。長い時間、突然の訪問を歓迎頂きご親切にご教授頂いた事に甚深なる謝意を申し上げて辞去いたして仁王像の最後確認に出かけました。

夕刻、お寺についたころにはヘトヘトでありましたが九月一日に仁王像は元気なお姿で高徳院へ戻ってまいります。二ヵ月遅れとなってしまいましたが何度も何度も遠方を往復した甲斐がありました。全て人任せではダメですね。修繕の仏師様達の最大限の努力に甚深なる感謝です。

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