住職備忘録
2010〜
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2002〜2009
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平成27年5月分

非営利斎場「六波羅蜜会堂」の動画です
 ご覧下さい

カウンター
■ 5/29 快晴       解剖慰霊祭
藤田保健衛生大学医学部での解剖慰霊祭追悼法要を本日執行してきました。創立者藤田啓介先生が提唱して第一回慰霊祭は高徳院で行われました。今では信じられぬ事ですが医学部学生諸君及び教職員はお寺に数日前から来て拭き掃除、法要の準備、トイレ掃除、ガラス磨きと、ご遺体を献体して下さったご遺族の方々への、ヒシヒシとした感謝の気持ちが伝わってきた事を覚えております。この頃では初夏の頃の慰霊祭となりましたが、創立者藤田啓介先生がお見えの頃は11月頃、寒くなった頃に本堂を会場として行われました。掃き清められた境内には両側に学生教職員一同がお出迎えをして深々と頭を下げておられました。座敷に上がったご遺族は未来の女医さんとなられる方々より様々な心を尽くしたおもてなしを受けて一時を過ごし、本堂で厳粛な追悼の辞、読経と法要が行われました。ご遺族のお見えでなかったご遺骨は納骨堂へ丁重に埋葬され、当寺では解剖体一番目の方から当寺の名簿に記載され、戒名も付けてそれは丁重にご供養が為されていました。憚り乍ら、藤田学園も草創の頃であり大変な困難な時期であったにもかかわらず慰霊の気持ち、ご遺体への感謝の気持ちは粗末になさらなかった事を20歳の頃の私の衝撃的な想いとして今でも鮮明に記憶しております。

藤田啓介先生がご存命の頃は、解剖実習が2期に渡り行われていました。2年生と6年生。通常の医学課程では1回が必修単位でしたが創立者は、ご遺体の大変不足している中、最終学年生に再度の実習を命じておられました。解剖学は大切な学科であり現実的、具体的、系統的な医学の基とされ、先生はその大切さを、困難な中に学生に科されました。一年に2回の火葬慰霊祭と、開学以来の総合慰霊祭の年3回の慰霊祭が行われていました。会場は高徳院から医学部講堂に移り、慰霊祭が行われるようになり、祭壇の上にはお一人が読み上げられるとお一人が焼香をする。お一人が席に戻るとまたお一人が読み上げられる徹底した供養祭であり、毎年法要は4時間ほどの読経となりました。恐らく今年で私は41回目の慰霊祭を主祭した事となりました。

今では「死んだら献体が良い。何もしなくても納骨堂に入れる」と真顔で言われる方がありますが、あの困難な時期と、献体の崇高な精神、医学発展と献眼や臓器移植等々、藤田先生を始め献体の会の「不老会」等の先人達の思いに振り返ると安易に献体という言葉は、その人々には不適切であるように思われます。葬儀が終わると、医学部の弔辞を頂いて医学部へ旅立った人々、そして医学部から遺骨となって高徳院に戻り火葬法要読経後、ご遺族に遺骨と感謝状、文部大臣表彰状を胸に、遺族の元へ帰られた遺骨は昭和47年以降総計2300霊位になりました。
■ 5/20 快晴       色々と毎日に追われます
朝、友人のお寺さんが来られて或る法要の弔辞の文章の打ち合わせをしました。突然のご来訪に朝からびっくりしました。今から30年ほど前に私が起こした文章であり、今年は事情で私が読めないかも知れない恐れがあるので一応彼に代読をお願いしてるのが理由なのです。『ところで住職さん、今朝の新聞に載っていましたね』と朝刊のお話をし始めました。実は私は新聞を取っていないのです。理由はあるのですが、新聞を取っていないのです。高校生になった子供たちから『お父さん、クラスで新聞とっていないの、家だけだよ』と言われたことがありますが、別に新聞に何も恨みも何もないのですが、取らないのです。それはともかく、早速新聞を買ってきて久しぶりに紙面を開くと以下の記事が載っていました。最近、マスコミの方が多種多様な事柄を取り上げて戴けますが・・・・それなりに相当に気を使うのが本音です。(正誤)5/19⇒5/20が正、中日新聞名古屋市民版。


午前中は、枕教、法事、京都から仏具屋さんが立派なお土産を持って来て下さり打ち合わせ、TBSからの取材、葬儀会社・建設会社との調整、セキュリティー会社、PC機器の打ち合わせと色々あり多忙の中、特殊プリンターの不調で暑いさなかイライラして夕刻を迎えました。夕方はお通夜、携帯電話会社、ビデオ取材をいつもして下さる方へのお礼、・・・・等々で今、備忘録の編集です。寺は毎日が激動です。
■ 5/18 晴/曇       月例会議や明日の準備
朝から予定の多い一日でありました。月例会議では色々と活発な会議でお寺の創意工夫を重ねてくださる職員さんの誠意を感じました。お参りもありまた突然のとある来訪の方もおありで午前中は落ち着かなかったです。明日はVIPがお越しになられる予定で広告代理店の方から打ち合わせの電話がありました。明日の来客はVIP+大学教授や古書店店主等7名で役所関係やマスコミも入れると17名で来寺予定です。不思議なものですが私が収集した古書や絵葉書のカラー化写真等を拡大パネル化した物が、明日役に立つとは夢にも思っていませんでした。明日も予定や、時間調整に追われる一日になりそうです。
■ 5/14       東海テレビ取材で・・・神無月さんがお見えでした
東海テレビの番組取材を受けました。有名なタレントさんもお見えになり午後からの殆どの時間が取材に消えました。放送日時は6月4日東海テレビあさ9時50分〜のスイッチ「御朱印めぐり」と言う番組です。古い古戦場の絵葉書のカラー写真やお寺の来歴、仏様のお話、お寺の環境、色々な話題を提供しながらの、俳優さんとのトーク番組で疲れました。どこで録画なのか、収録なのか・・・ハッキリしないままのありのままのお寺と私の姿が6月4日に放送されると思います。ご期待を下さい。 明日はケーブルテレビの15分番組での取材があります。顔が皆さまに行き渡り、ますね。
古戦場から境内へ、境内から本堂、竹藪、瑜祇塔へ てくてく
本堂の前で 俳優さんと
お疲れ様でした
■ 5/13       お世話人親睦旅行
土佐高知へ初がつおの旅行に二泊三日で出掛けてきました。さすがに初がつおの名前が示すが如く、大変に美味しい料理であり、長距離旅行でもバスの中は大変雰囲気が良く楽しい旅行ができました。中日は台風がで雨が降っていましたが、善通寺市内での醤油うどんには皆さん、大満足でおられました。バス運転距離は1000km弱でありましたが交通安全で大変気を遣いました。でも何事もなく無事にお寺に着けた事に安堵しました。
■ 5/09       樹勢 回復工事
お寺にはたくさんの木々が植樹されたことは度々、このHPでご紹介の通りですが、、やはり手入れをしないと樹勢いも落ちる場合があります。特に桜は樹齢とか種類によって弱る場合もあります。当寺のシンボル樹『タブ』はここ数年、通気抗を作り施肥を行い堆肥を施し枯れ枝を除去した成果が上がっているのでしょうか、近年日増しに樹勢いを回復しつつあります。所が今度は枝垂れ桜の一部に樹勢の衰えが数年前より見受けられるようになりました。或る業者さんがお見えになり『樹勢回復と消毒を』と強く勧められてこの度、初めて消毒及び土壌改良、施肥を行いました。一度で完了かと思えば数度行い、来年を楽しみにして欲しいとの事でした。あと二度ほど施工をして完了ですが、花も木々も人間も、手入れと思いやりが大切ですね。
水溶薬剤をエアースコップで地中に注入
枝垂れ桜の注入
タブノキへの注入
幻の団十郎 枝垂れ桜
注入口に何やら肥料を
消毒です
五月中にもう一度、今年の秋にもう一度
計三回の施工ですがどうも一日では終えられないようでした

■ 5/08       海外 お医者事情
○国○京に駐在されて居られる方がGWに一時ご帰国をされました。有名な自動車会社にお勤めでアメリカ等海外駐在が多い方です。『○京の環境汚染は酷そうですが・・・』と尋ねると最悪でありできれば帰国したいと仰っておられました。実は先代住職で私の父も北京にいた事があり通訳をしていたので色々と○京の昔話を聞いていたので興味もあり色々とお尋ねしました。「是非○京に来て下さい、ご案内します」と嬉しい事を言って下さいました。とてもお話が弾み「病気になったら?」とお尋ねすると「日本のお医者様がおられるので」とお答え下さいましたが・・・保険が利かないので実費ですと言われました。
「例えば??」
「そうですね、虫歯になったら一回の治療が6万円くらいかな?」
「六万円??、一回が?」
「そうなんです、アメリカでも何処でも保険がないと。日本は有り難いです」と仰ってお見えでした。私の知り合いがかつてハワイ島で開教師として10年程住んでおられました。何処かお寺に入りたいので探して欲しいとの依頼を受け、観光半分でハワイへ出向いた事がありました。ハワイでの生活や宗教の話し、生活費の話から医療費のお話に至りました。やはりハワイでも医療費は高くて一度お医者にかかると10万円くらいかかる。出産すると40万円くらいかかり、出産翌日には退院すると言っていた事を思い出しました。

日本では比較的気安くお医者さんにかかれますが、この様な保険制度がある国は他にあるのでしょうか。大量のお薬を飲み忘れたり、自分勝手な思いこみや、勝手な事を言ってお医者さんとトラブルになったり・・・国民皆医療保険の恩恵を改めて感じ、医者も患者も有り難さを忘れてはいけないと思いました。医者のハシゴに、むやみやたらな検査や投薬。めぐり巡って医療福祉の損壊を招き、自分の首を絞めるに値する生活をもう一度考えさせられる一日でした。
■ 5/05       四国総合病院 院長は?
四国総合病院?? 何処にあるのですか?? 
本日、四国88カ所を徒歩で巡礼して一ヶ月半振りにお帰りになられた方が元気にご挨拶に来て頂きました。全行程は1200kmで一日に約30kmを歩かれたそうです。午前中の20kmは負担は午後からになると5kmの辛さになるそうです。ひたすら歩き、手荷物も全部送り返して着の身着のままで、宿に着いたら今日の洗濯をして明日に備え、菅笠が太陽と体温を適度に調整し、一生懸命に歩いたそうです。同じ札所を順に巡るので歩き遍路の方はあちこちで顔見知りになり、知らぬ同士がそれぞれの身の上を語り、80歳を過ぎても1200kmを毎年歩いている方もお見えであったそうです。

体重は5kg痩せたそうです。そして何よりも健康になったそうで歩き遍路の方々の合い言葉は「四国総合病院 院長 弘法大師先生」だそうです。確かに歩く事は大変健康に良く、一番から88番までの気の遠くなるような行程もゴールがあり最後は高野山奥の院で終えられる、経験をなさらないと分からない感激があるそうです。奥の院に到着したら亡き両親や義兄の思いが溢れて涙、、、涙の感激だったそうです。80歳の方にもできる歩き遍路。。。私にも本当にできるでしょうか?? 四国総合病院への検診と入院は何時でしょうか?? 感激のお話を伺いました。
■ 5/03 晴/曇       白黒写真のカラー化
桶狭間古戦場の話題が沸騰し始める季節となってきました。この地に生まれて私が中学生の頃から急に古戦場が「二つある」と言う話題が出始めてマスコミや行政、熱心なな地元の郷土史家の方々の熱い話題となって40年ほどになります。好むと好まざるとに関わらず、また少なからずその話題に引きずり込まれたりコメントを述べたりをしていました。何気なくネットで古戦場を調べていると明治大正昭和と観光地としての桶狭間古戦場の絵葉書がある事に気が付き始めました。ここ10年ばかりの内に200枚弱の絵葉書を収集しました。

 新しくても保存状態の悪い写真、古くても新鮮な写りの写真と色々でした。また高徳院の当寺の写真も多くあり、恥ずかしながら当寺にない写真も多く入手しました。豊明市、名古屋市緑区の桶狭間古戦場を写した絵葉書は正直に往時の様子を写したのもばかりであり、写真が一般的な頃でない頃の写真は同じ写真をタイトルだけ替えて発売をされていたのでしょう、同じ構図の写真が多かったです。また、豊明市桶狭間古戦場と緑区桶狭間古戦場の絵葉書出版比率は98%:2%で圧倒的に豊明市、現在の絵葉書が多いです。しかしながら、全てが白黒写真であり不鮮明なところも多く詳細な部分が不鮮明でした。

白黒写真をカラー化する映像処理を或る専門家に依頼して先ほど数枚の画像ファイルが手許に送られてきました。私が自費でコツコツと収集したホンの数枚をここにご覧になって頂き、往時の古戦場の姿を思い浮かべられたら古戦場の話題も終止符が打つ事ができるのでしょうか?もう少し時間と費用がかかりますが「歴史を写した映像」は、想像や思いこみを越えた真実が映し出されていました。
まだまだたくさんありますが、古戦場祭りにできるだけ展示します。